
京太郎がみたヒロシマ

あまり強がりも言わず、弱気もはかずに人生を生きていきたいのに
三線と歌だらけの人生に足をつっこんで
すこし後ろを振り返りたいと思ったその瞬間
こんな顔をしていた。
原爆が落とされたのは、前の世紀の終わりから50年ちょっと前。
年表でみたら、文字の隙間くらいだ。
だれでも原爆の怖さは知っているのだが、
戦争で失いたくないものが多すぎて
つい原爆くらい持ってもいい、でも自分で持つのはいやだ
そうだ、アメリカの国だったらいいかも、と
悪い国なんかやっつけてくれ!と。
いつもの他力本願でやりだしたこの国。
いやそれではいかん、戦艦大和は頼りがいがある、
と思っている人も多くなった。
その国の、今はまことに「平和」に見える。
岩国に米軍艦載機が来ることも
夜間訓練さえおまけ付きかもしれないことも
美しい海を守ろうと誰もが思うのに
辺野古の美しいすぎる海は、誰もみたこともないので
そこならちょこっと基地でもつくっていいかな、なんて
少なくない日本国民が思いつつあることも
平和大通りに埋め尽くした人々の顔からは読み取れなかった。
エイサーの京太郎は、あの世の人々を迎え送り出す役割。
しかし、あの世の人はいなかった。
この世の人ばかり。
京太郎の目でみた人々は、笑顔のようで、心の中に見えない不安を
いっぱい抱えているようにも見えたぞ。
2006年05月05日 18:59
Posted by たる一
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