
やってしまった!
少し前にドイツの方からメールをいただいた。
このブログのTI-DA経由の、いわゆる読者からのメールである。
ある人が作った琉歌の翻訳を頼まれたがわからないということだった。
このような琉歌だった。
だんじゅかりゆしぬ うたやわちゃがたん ゆなさちゅるしま ちむにぬくてぃ
だんじゅかりゆしぬ うたぐいぬ ふぃびち みうくる われが うみにどぅ ぬくる
その訳を書いておくったがずっと返事がこなかった。
おかしいと思い、「メール届きましたか?」と昨日送ったら、すぐに返事がきた。
メールは届いていない、とのこと。
あわててメールを調べてみると、この「TI-DA」に返信してしまっていたのだった。
やっちまったな~ という感じで
しかたなく、再度書いたものを送ったら
その方もいろいろ苦労されて翻訳をがんばっておられた。
もうしわけない、です。
以下は、私からのメールである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
S様
遠い地からのメール、ありがとうございます。
さっそくですが本題です。
danjukariyushinu uta ya wa cha ga tan yu na sa chu ru shi ma(島?) chi mu(肝>心?)ni nukuti.
これを琉歌の形式(8886文字)に直すと
だんじゅかりゆしぬ (8文字)
うたやわちゃがたん(8文字)
ゆなさちゅるしま(8文字)
ちむにぬくてぃ(6文字)
それぞれ意味は以下のようだと思われます。
だんぜん めでたい 歌は湧き上がり ユナ(の花)咲く村 心に残って
語句・わちゃがたん<わちゃがゆん 湧き上がる。 完了形。(・・たん)・ゆな<ゆーな オオハマボウ。「黄色の花弁をつけるアオイ科の潅木」・しま 「しま」はウチナーグチで「村」を指す。・ちむ 心。 肝(kimo→三母音化kimu→chimu)
だいたいこのような意味と思われます。
>「だんじゅかりゆしぬ うたぐいぬ ふぃびち」>「船出する者を送り出す『だんじゅかりゆし』の歌声の響き」;「みうくる われが うみにどぅ ぬくる」>「見送る我が海にぞ残る」(船を送り出す縁起良き歌の歌声よ響け、見送る私のいる海にこそ残れ?)
この部分が少し疑問があります。
最後「残れ!」と命令形になっておりますが「うみにどぅ ぬくる」は「海にこそ残る」です。
「どぅ」(強調の係助詞)が、動詞「ぬくゆん」を連体形でする「係り結び」の用法です。
私の感想は以上です。
また、ご意見、その後の経過などありましたらお教えくださいね。
今後ともよろしくお願いします。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そして、いま、この文章を見直して、またあることに気がついた。
「うみ」は「海」ではないのではないか。
以前、私が胤森さんに「『海やから』の『海』は『思い』ではないのでしょうか?」と疑問をぶつけていたことがある。
そしてドイツのSさんにすぐにメールを送った
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ところで、自分のメールを読み返し一点だけ訂正があります。
受取った歌詞の2番「うみにどぅぬくる」の「うみ」ですが
思い込んで「海」と訳しておりますが
ここは「思い」=「うみー」とも訳せます。
ほとんど「うみ」は接頭語ですが、たまに「うみー」として「思い」という名詞になります。
琉歌では詩的許容(短縮される)によって「うみ」となるため、区別がつきません。
また,名詞「思い」のウチナーグチ「'umi」(『'』はグロッタルストップ)の発音は
「海」('umi)とまったく同じであるため
昔から琉歌の世界でも混同されたり、わざといいかえたりすることがあります。
(たとえば、「海やから」という歌があるのですが、これは本来「思いやから」という
歌だったと思われます)
この歌
みうくる われ が うみに どぅ ぬくる
ここは「見送る私の思いにだけ残る」と訳したほうがよいと気がつきました。
「どぅ・・」は「・・だけが」と訳したほうがいい場合があります。
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やれやれ、不手際の極み、である。
遠くドイツの地でもウチナーグチに心をはせて、調べている人がいることに感動しつつ
不手際で人に迷惑を掛けることがあってはいけない、と自戒をこめて。
さ、今日はコンクール勉強会。
そして明日は「フラワーフェスティバル」
横川ふしぎ市~呉みなと祭と続いたイベントラッシュの最後だ。
このブログのTI-DA経由の、いわゆる読者からのメールである。
ある人が作った琉歌の翻訳を頼まれたがわからないということだった。
このような琉歌だった。
だんじゅかりゆしぬ うたやわちゃがたん ゆなさちゅるしま ちむにぬくてぃ
だんじゅかりゆしぬ うたぐいぬ ふぃびち みうくる われが うみにどぅ ぬくる
その訳を書いておくったがずっと返事がこなかった。
おかしいと思い、「メール届きましたか?」と昨日送ったら、すぐに返事がきた。
メールは届いていない、とのこと。
あわててメールを調べてみると、この「TI-DA」に返信してしまっていたのだった。
やっちまったな~ という感じで
しかたなく、再度書いたものを送ったら
その方もいろいろ苦労されて翻訳をがんばっておられた。
もうしわけない、です。
以下は、私からのメールである。
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S様
遠い地からのメール、ありがとうございます。
さっそくですが本題です。
danjukariyushinu uta ya wa cha ga tan yu na sa chu ru shi ma(島?) chi mu(肝>心?)ni nukuti.
これを琉歌の形式(8886文字)に直すと
だんじゅかりゆしぬ (8文字)
うたやわちゃがたん(8文字)
ゆなさちゅるしま(8文字)
ちむにぬくてぃ(6文字)
それぞれ意味は以下のようだと思われます。
だんぜん めでたい 歌は湧き上がり ユナ(の花)咲く村 心に残って
語句・わちゃがたん<わちゃがゆん 湧き上がる。 完了形。(・・たん)・ゆな<ゆーな オオハマボウ。「黄色の花弁をつけるアオイ科の潅木」・しま 「しま」はウチナーグチで「村」を指す。・ちむ 心。 肝(kimo→三母音化kimu→chimu)
だいたいこのような意味と思われます。
>「だんじゅかりゆしぬ うたぐいぬ ふぃびち」>「船出する者を送り出す『だんじゅかりゆし』の歌声の響き」;「みうくる われが うみにどぅ ぬくる」>「見送る我が海にぞ残る」(船を送り出す縁起良き歌の歌声よ響け、見送る私のいる海にこそ残れ?)
この部分が少し疑問があります。
最後「残れ!」と命令形になっておりますが「うみにどぅ ぬくる」は「海にこそ残る」です。
「どぅ」(強調の係助詞)が、動詞「ぬくゆん」を連体形でする「係り結び」の用法です。
私の感想は以上です。
また、ご意見、その後の経過などありましたらお教えくださいね。
今後ともよろしくお願いします。
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そして、いま、この文章を見直して、またあることに気がついた。
「うみ」は「海」ではないのではないか。
以前、私が胤森さんに「『海やから』の『海』は『思い』ではないのでしょうか?」と疑問をぶつけていたことがある。
そしてドイツのSさんにすぐにメールを送った
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ところで、自分のメールを読み返し一点だけ訂正があります。
受取った歌詞の2番「うみにどぅぬくる」の「うみ」ですが
思い込んで「海」と訳しておりますが
ここは「思い」=「うみー」とも訳せます。
ほとんど「うみ」は接頭語ですが、たまに「うみー」として「思い」という名詞になります。
琉歌では詩的許容(短縮される)によって「うみ」となるため、区別がつきません。
また,名詞「思い」のウチナーグチ「'umi」(『'』はグロッタルストップ)の発音は
「海」('umi)とまったく同じであるため
昔から琉歌の世界でも混同されたり、わざといいかえたりすることがあります。
(たとえば、「海やから」という歌があるのですが、これは本来「思いやから」という
歌だったと思われます)
この歌
みうくる われ が うみに どぅ ぬくる
ここは「見送る私の思いにだけ残る」と訳したほうがよいと気がつきました。
「どぅ・・」は「・・だけが」と訳したほうがいい場合があります。
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やれやれ、不手際の極み、である。
遠くドイツの地でもウチナーグチに心をはせて、調べている人がいることに感動しつつ
不手際で人に迷惑を掛けることがあってはいけない、と自戒をこめて。
さ、今日はコンクール勉強会。
そして明日は「フラワーフェスティバル」
横川ふしぎ市~呉みなと祭と続いたイベントラッシュの最後だ。
2009年05月02日 08:33
Posted by たる一
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