目当て

たる一

2014年04月20日 09:48

てぃんさぐぬ花
(鳳仙花の花)

夜走らす船や 子ぬ方星目当てぃ
我ん産ちぇる親や我どぅ目当てぃ

沖縄民謡の「てぃんさぐぬ花」の一節で歌われる歌詞。


意訳してみると

(夜走る船は北極星を目当てに航海する。
同様に、私を産んだ親は、私を目当てに生きていらっしゃる。)

しかし「目当て」という訳がどうもしっくりこない。

国語辞典をひもとくと

目的。目印。行動の狙い。などの言い換えがある。

例えば、船は真北に目的がなければ、普通、北極星を目的にはしていない。

北極星をまずみつけて、そこから進むべき方向へ進む。

これを「目当て」つまり「目的、目印、行動の狙い」と訳すと、親が子育てをするのも、子ども(の成長)が目的ということになる。

琉球語辞典(大学書林)をみると

「目当て」は「みやてぃ」

「みあてぃ」ではない。

一方、「みあてぃ」をさがすと「みーあてぃゆん」という動詞があって
[琉歌では「みー」を「み」と短縮して表記する]

見つける

とある。

夜の航海でもまず北極星がどこにあるかを見つけて、そこから目を離さずに目的の方向へ航海するだろう。

親は子育てをする時、いつも子どもから目を離さない。いなくなれば探さない親はいない。大人になっても、離れて暮らしてもいつも子どものことを想い、気遣う。

「みーあてぃ」という語句は「目」(みー)と「当てる、合わせる」(あてぃゆん)で「見つける」になる。

ある沖縄のご婦人がこの歌詞を話題にあげて

「沖縄の親は、子どもを当てになんかしてない、当てにして子育てをしているって思われたら嫌だ」

と言われたことがあったが、それが「目当て」という訳に疑問、違和感を感じたきっかけだった。

別に子どもが出世して金儲けすることを親(自分)が「あてにする」ことが悪いとは思わない。

けれども、この歌を意訳するなら、「見つける」という言葉にある、いつもいつも子どもを気にしている親への感謝という側面が薄くなってしまうように感じるのは私ぐらいだろうか。


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